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7月2日(土) モアブ〜モニュメント・バレー AM6:00、起床。 AM7:00、朝食。 AM8:00、テント収納。モニュメント・バレーとラスベガスのオプショナル・ツアー代金として、90ドルをブリッタに支払う。 AM9:00,モアブを出発して、ナバホのモニュメント・バレーを目指す。車は国道191号線、163号線を約320Km走る。その途中で幾つかの名所に立ち寄る。 1、国道191号線上に現れるホール・イン・ザ・ロック(Hole in the
Rock)は、14の部屋を持つ。昔は住居にでも使用されていたのか、今は土産店になっている。庭には遊び心満点の工芸品が展示されている。
2、国道191号線から州道211号線に少し入った所に、ニュースペーパー・ロック州立歴史記念物(Newspaper Rock State Historic
Monument)があり、先史時代に描かれた岩石線画、ペトログリフ(Petroglyph)が見られる。 AM12:30、国道163号線上の、グース・ネック州立公園(Goose Neck
State Park)で、昼食。食材は昨日の残り物のピザ、ゆで卵、西洋ナシ。 西洋ナシを食べながら、「日本にも美味しいナシがあるよ」と言うと、ブリッタが、「私は一度食べたことがあるけど、硬くて味が無くて美味しくなかった。日本では、あんな物をどうやって料理するのか」と言って、私の話が全く理解できないようであった。「私はそんなにまずいナシは食べない。日本には、幾つもの種類があって、私が食べているのは、それは美味しいナシだ。家の近くにナシ園があって、市場に出せない跳ね出しを安く買って食べているよ」と言うと、「ふーん」とにわかには、信じられないと言う顔をしていた。 ここの公園の景観は、昨日サンセットの鑑賞に行ってきた、デッド・ホース・ポイントに似ている。デッド・ホース・ポイントはコロラド川の浸食でできた180度の蛇行だが、こちらはサン・ファン川(San
Juan)の浸食で、180度が何と3回も折り重なって蛇行している。その狭い曲がり角が「グース・ネック」と呼ばれる所以である。見晴らし台のすぐ下は、約300mの深い崖だ。此処の断崖の層は、3億年の時間を見せている。そして此処から遠くに目をやると、モニュメント・バレー(Monument
Valley)が霞んで見えている。
Goose Neck
State Park
Monument
Valley ランチを食べていた近くで、ナバホ族のおばちゃんが、アクセサリーを台に並べて売っている。私が「このネックレス、綺麗だね」と手に取ってブリッタに見せると、「石は綺麗だけど、ソウバが安っぽい。安いソウバは、すぐ色が変わるから」と言う。「ソウバ」って何のことだろうと思い、スペルを聞くと「silver」つまりシルバーの事であった。シルバーの発音がソウバと聞こえて、理解できなかった話でした。 PM1:30、モニュメント・バレーを目指して出発。途中で次の2つを目撃した。 1、メキシカン・ハット像(Mexican Hat)
2、アルハンブラ・ロック(Alhambra Rock)
PM2:00、国道163号線のモニュメント・パース(Monument
Pass)に差し掛かる。まさに映画「駅馬車(Stage
Coach)」に出てくるシーンだ。「あんな風景が何処にあるのだろう、出来ればこの目で見たいものだ」と思い続けていた所である。映画で見た風景は嘘ではない、作りものではない、現実にそんな世界が存在していたのだ。帰ったらもう一度あの映画を見よう。只今、夢に見た世界を通過中!「ドリーム・カムズ・トゥルー(Dream Comes True)」
PM2:30、モニュメント・バレー近くのキャンプサイト「グールディングス・キャンプグラウンド(Goulding’s
Campground)」に到着するや、テント張り。強い日差しの中、少しの風で砂が舞い上がるキャンプサイトでのテント張りは、それだけで汗ビッショリになる。 PM3:30、モニュメント・バレー・ビジター・センター(Monument Valley
Visitor Center)に向かう。此処で6時からのオプショナル・ツアーが始まるまで、自由時間だ。「そんなに時間を与えられても、やることは無いだろうに」と思いながらぶらつく。外は砂漠の日差しで、日を遮るものがないので、外にも出られない。センター内の土産店を見て、掲示物を見れば終わり。
このビジター・センターは、最近出来たばかりで、ブリッタが去年来たときには、建築工事中であったと言う。これが無い時にはどうやって時間を調整していたのだろう。外は5分と立っていられない炎天下の砂漠である。 私はレストランでコーラを一本購入して、時間をつぶした。日本人の声が、チラホラ聞こえてくる。JTBのツアーが、ラスベガスから来たりしているらしい。 更に、インフォーメーションに寄って、数枚のパンフレットをもらい、じっくり読んでみることにする。そのパンフレットの中に、太平洋戦争時の「ナバホ・コード(Navajo
Code)」に付いて書かれていた。そう言われれば、かつてチラッと耳にしたことがあったが、この件について、きちんと認識したことは無かった。 つまり、日本側に暗号を解読されない為に、アメリカ側はナバホ語を使った。ナバホ語は複雑で特殊な言葉であり、まだ世界に知られていなかったからである。その使命に耐え得るナバホ人を募集して訓練し、然るべき場所に配置した。彼らの役割は大変有効で、米軍勝利の大きな一因となっている。そのことが、アメリカの新聞で報道されたのは、戦後何年も経った、ベトナム戦争終了後の1969年である。しばらくはその存在自体が秘密にされており、従ってナバホの貢献度が顕彰されることもなかった。ナバホ族居留地に来ると、あちこちの掲示板に「ナバホ・コード・トーカーズ(Navajo Code
Talkers)」の新聞報道が張り出されている。 一軒のキングバーガーに立ち寄ると、その一角が「ナバホ・コード」の資料室の様になっていて、当時の新聞の他に、ナバホ・コードで活躍した人のその後の人生を、紹介したり、「ススメ、急げ、降参しろ」等、当時使われた簡単な日米対訳メモや、日の丸の旗に寄せ書きした物等が展示されたりしていた。 此処には、「ナバホ人は、これだけアメリカの勝利に貢献したのだ」と言う、意思表示も感じられるが、私としては、日本側の暗号が、全て解読されていた事に比べ、アメリカ側の戦略・戦術の巧みさを感じざるを得ない。(ナバホ・コード・トーカーズを扱った映画としてジョン・ウー監督、ニコラス・ケイジ主演の「ウインド・トーカーズ」2001年がある) それに先住民族の存在感についても考えさせる。いま先住民族はナバホ族を最大として、10前後の族が存在しており、その中でも「アパッチ族」の名前は我々日本人にも、映画等を通して馴染みがある。 こちらを旅行しての認識では、「ナバホ族居留地」は、自治権を認められて大統領もいると言う。そしてこのナバホ族居留地は、アリゾナ州を中心に、ユタ州、ニュー・メキシコ州の3つの州に跨った州境に存在している。私がこちらに来て購入した大判の地図には「NAVAJO
NATION」と記入されている。 全米最大の先住民居留地、ナバホネイションは、東北6県に相当する広さがある。約30万人のナバホ族のうちやく25万人がナバホネイションとその周辺に住み、約300人がモニュメント・バレーで生活している。ナバホ族居留地の首都はアリゾナとニュー・メキシコの州境にあるウィンドウロック(Window Rock)である。 PM6:00、オプショナル・ツアーの開始。小さなトラックの荷台にベンチ風のイスを3列並べたのが客席だ。運転手兼ガイドはナバホ族の男性。色が黒くて、やたらと腹が出ているが、愛嬌、ユーモアがあり名ガイドぶりであった。日本人観光客も多いらしく、日本語の単語も並べていた。そして、「こっち、あっち」は、ナバホ語と同じであると言っていた。
トラックは、窪地に突っ込んだり、砂地にハマったりして、でこぼこ道を右に左にヨロケながら進む。我々は、クッションの利かない椅子に、シートベルトをして振り落とされないようにしている。砂埃をかぶることは、覚悟の上だが、白っぽいズボンはすぐに赤くなってしまった。これが雨期になると、水があふれて車も走れなくなる。その雨期は明日にも始まると言う。ぎりぎりの時期に訪問したことになる。
このオプショナル・ツアーに参加することで、舗装道路からは見えない光景もたくさん見学できた。例えば、
1、3姉妹(Three
Sisters)
3、風の耳(Ear of the Wind) と名付けられた岩の造形物等である。しかし、これらの巨大な物は、近くで見れば良いという物でもない。かえって遠くから見た方がアラが見えず良いことが多い。富士山のことを考えれば用意に推測できよう。 4、ビッグ・ホーガン(Big Hogan):ホーガンとはナバホ族の泥や草で覆ったお椀形の住居を言うが、ここのビッグ・ホーガンは自然の造形である。我々はこの中に入り、そこで仰向けに寝て天井の穴を眺めた。ホ−ガンの内部が広すぎて、落ち着かなかった。 Big Hogan-1 我々がビッグ・ホーガンの中で寝そべっていると、ガイドがやや離れたところで笛を吹き始めた。それは2本の竹笛で作られたような形をしており、音色は哀愁を帯びて、心に染み入るものであった。 Big Hogan-2 5、モニュメント・バレーに夕日が沈む頃、トーテム・ポール(Totem
pole)が夕日に映えて立っていた。 Totem pole PM8:30、ツアー終了後は、ナバホ料理(ナバホ・タコス:Navajo
Tacos)のディナーが振る舞われた。インドのナンを油で揚げたような、ふかふかの揚げパンの上に、煮豆を乗せ、更にその上に野菜のきざんだ物を乗せた一品である。これにステーキが加わる。過日、サンタ・フェのレストランで食べた、メキシコ料理より美味しかった。 Navajo Tacos PM9:30、ディナー終了後は、ナバホ族の伝統踊り。夜も更けてくる中、たき火を燃やし、その篝火の中で伝統の衣装を着て舞う。隣で小さな太鼓を鳴らしながら、歌っているのは兄弟のようだ。盛り上がってくると我々も踊りに参加する。私も輪の中に入ってドジョウすくいの真似をして見せた。こうして料理や舞で我々を歓待してくれたのは、40歳前後に見える、運転手兼ガイドの一家、総勢10人ほどであった。 Navajo Dance
家族状況はやや複雑で、すんなりとは理解できなかったが、その中に、30歳代で顔立ちが他の人と明らかに異なる、スカートをはいた女性がいた。「彼女はナバホ族じゃ無いようだね」と言うと、ブリッタは「スペイン系の顔立ちに見えます」と言う。全てが終わってお開きになった時、私はその人に直接聞いてみた。 「失礼ですが、あなたはナバホ族の人ですか」すると「いいえ、私はアパッチ族です。ニュー・メキシコ州に住んでいましたが、結婚してこちらに来ました」と答えてくれた。顔立ちや体型が、ほとんど西洋人と変わらなかったので、意外に思えた。「アパッチ族とナバホ族の言葉は同じなのですか」と聞くと「似ていますので、理解し合えます」と言う。私にとっては、こんな所にも知らない世界があることを教えられた。そしてナバホ族とモニュメント・バレーの関係は、オーストラリアにおけるアボリジニとエアーズロック(ウルル)の関係を想起させてくれた。
Navajo
Family PM10:30、夜空に星が輝いているだけの、真っ暗闇の中を我々はトラックで、モニュメント・バレー・ビジター・センターに送ってもらう。その時、10才と19才の女の子が我々のトラックに飛び乗ってきた。「こんなに夜も更けているのに、何を考えているのだろう」と訝っていると、19才の丸まると太った女の子が、私が日本人であることを確認してから、かなりしっかりした日本語で自己紹介をした。 私はびっくり!ナバホの女の子から日本語で話しかけられるとは。65年の人生で、こんなに驚いたことも少ないと思う。聞いてみると「今年の8月に、同じ学校で日本に興味を持っている友人7人と1週間、日本に行きます。自分は日本の文化にすごく関心があります。日本語の勉強は、マンガや映画を見て独学でやっています」と言うではないか。 ビジター・センターに着くまで、ゴトゴト道を行くトラック上での、約30分間の日本語と英語を交えた会話であった。私の知らない世界に、こんなに日本に憧れを持っている子が居る。日本の文化はもっと大切に保存していく価値があるのではないか。そんなことを考えていた。 そして私は、この素朴で純情なナバホの女の子と別れ難い心境であった。「何か応援できることはないのか」と、必死に思いを巡らしたが、今突然会ったばかりだし、この夜更けだし、結局何も言い出せないまま、「おやすみ!」と言って車を降りるしかなかった。 PM11:00、シャワーも浴びず、疲労困憊の状態でテントに潜り込んだが、興奮の為しばらくの間、頭だけが冴えていた。 7月3日(日) モニュメント・バレー〜グランド・キャニオン
AM6:00、起床。 AM7:00、シャワー、食事、テント収納。風と砂とで、シャワーを浴びてもすぐに元の木阿弥だ。 AM8:30(AM7:30)、グランド・キャニオンに向かって出発。ユタ州からアリゾナ州に入るに当たり、時差の調整で時計の針を1時間遅らせる。車は国道160号線、国道89号線、州道64号線を通って約320Kmを走る。 AM9:00、ケイエンタ(Kayenta)にて、小休止。旅行記の流れの中で既に昨日の所で書いてしまった「バーガー・キングにナバホ資料室」が有ったのは、この町である。 AM10:30、キャメロン(Cameron)の大きな土産物店で、1時間半の休憩。土産物に興味の無い私は、時間を潰すのに苦労する。どこかに涼しい日陰はないかと探し歩いても、太陽がほぼ真上に来ており、そんな所は見つけ出せなかった。所在無げに再びクーラーの利いた土産物店に入ると、アッキーも同じ様な風情でいた。「涼しいところで腰掛けたいのだが」と言うと、「レストランでコーヒーでも飲もうか」と話が合った。 涼しい所に座れたのは良いが、今度はアッキーの聞き取りにくい英語に耳を傾けねばならない。マレー系オーストラリア人なので、マレー語の訛が入っているのか、それにヤタラと早口だ。それでも出会った頃は全く聞き取れなかったアッキーの英語を、少しは聞き取れるようになったのは、やはり慣れと言うものだろうか。 彼は現役の公務員であるが、それにしても休暇が多い。「毎年2ヶ月の有給休暇があり、更に1年おきに、1ヶ月の無給休暇が取れる」と言う。経理担当だから決算の忙しい時をはずせば、彼のボスは何も言わないそうだ。日本人の私から見たら「アンビリーバブル」だ。独身で旅行好きとくれば、世界中を歩くしか有るまい。現に彼の話を聞いていると、相当あちこちを歩き回っておいでだ。 AM11:30、私とアッキーが暇つぶしの懇談をしている所へブリッタが来て「まだ早いけど、ランチにしようか」と言う。レストランも昼食を取る人で込んできたので、こちらとしてもその方が有り難い。それにしても、もう少し日陰の有る所で食事がしたいよ。椅子もなく石段に腰掛けての昼食だ。食が進むわけがない。 AM12:45、グランド・キャニオン(Grand
Canyon)に到着。早速、雷様のお出迎え。近くの展望台から渓谷を見下ろすが特に感動なし。どうしてだろう。既に多くの渓谷は見てきたし、写真からのイメージが出来ていて、それとも大分違うし。ブリッタに正直にそう言うと、此処は「まだ入り口だから」と言う。雨も降ってきたし、明日に期待するしかない。 Grand
Canyon-1 PM2:30、グランド・キャニオンの映画を鑑賞。空中から、水中から、水上から、崖から、あらゆる角度から撮られた映像は、その歴史、地理、地質等を語って、豪華に出来ていました。12ドル也。 PM4:00、先ほどから降っていた雨が止み、今日のキャンプサイト(グランド・キャニオン・キャンパー・ビレッジ:Grand Canyon
Camper Village)へ。既に我々と同じトレック・アメリカの車が4台来ていた。ここが人気のある観光地だと言うことを示している。テントを張ってから、25セントのコイン1個で1分間のシャワーを浴びる。 シャワーから戻ると、ブリッタの友人が来ていた。「名前をエミリー(Emily Elizabeth Ross)と言います。エミリーには特に意味がないが、ミドルネームのエリザベスは、両親がカソリックだったので、クリスチャンネームとして、聖書から取って付けられました」と言う。ツアーガイドの研修時にブリッタと一緒だった人だ。今は、此処から車で1時間程の所に住んでおり、女性ながら消防士で、町でも初の女性消防士として新聞で紹介されたそうだ。 「ツアーガイドの研修は、それはハードでした」と言ってその様子を話してくれた。1ヶ月半の研修期間中、ほとんど寝る時間が無かった。法律、国立公園のガイド、道路網等の室内研修の後、車の運転、メンテナンス、キャンプ用料理等の実地訓練をやり、最初のうちは客が乗っていない車の移動をやらされる。ブリッタが最初に運転したのは、シカゴからロス・アンジェルスまで3泊4日の強行軍であったと言う。 そんなハードな訓練に耐えてツアーガイドになっても、若いときの数年で辞めてしまうようだ。エミリーはツアーガイドの仕事で、全米を走り、一番気に入った環境をアリゾナ州に見つけ、そこに落ち着いたのだと言う。 PM5:00、テントから200m程離れた洗濯棟へ洗濯に。洗濯と乾燥で4ドル也。私が行ったときには先客が居て、5個の枕を乾燥機にかけている。どうしたのかと聞くと「今朝の雷雨でテントごと飛ばされ、水浸しになりました」との事。今朝の私たちは、乾燥した砂と風に悩まされていたが、それはまだ良い方だったのだ。 PM6:00、今日の夕食は、タイ料理。米から出来た平べったいうどんを茹で、その上に、タイ風味付けの、炒めた野菜を載せたもの。うどんはお湯に入れる時によくほぐさなかったのか、あちこちに固まりが出来ており、野菜の味付けは、甘くピンぼけした物でした。私はブリッタが用意していたキッコーマン醤油をたっぷりかけて、何とか口に運んだ。ブリッタは、夕食の支度が終わると、友人と連れだってディナーに行ってしまった。 PM8:00、妻にメールを送る。 PM9:00、明日の朝が早いので、早めの就寝。今夜は冷え込んでおり、モモシキとメリヤスのシャツを着込んで寝袋へ。たった1日で何という気温の変化だろう。 7月4日(月) グランド・キャニオン AM3:50、起床。 AM4:15、サンライズ(sunrise)鑑賞のポイントへ。 AM5:00、ポイントに到着。パチリ、パチリ。良い写真が撮れたかな?日本からの団体さんも見えていた。 Sunrise-1(Grand Canyon) Sunrise-2(Grand Canyon) AM6:30、キャンプサイトへ戻って朝食。 AM7:30、近くにエルク(ヘラジカ:elk)が居るという情報で、駆けつけてみると、いました、いました。大きな角を持った、大きな雄のエルクが2頭、野次馬が写真を撮る中でゆっくりと餌をはんでいました。大通りの南側の木の芽を食べ終わると、車が走っている中を、悠然と大通りの北側へ歩いて行き、そこにある木の葉を食べていました。人間に怯える風な姿は全くなく、時折こちらに目を向けられると、人間の方が怯えて後ずさりする有様でした。 Elk AM9:30、ハイキングへ出発。今日は夕食の時間まで自由行動である。我々は、グランド・キャニオンの南側の縁(South
Rim)を歩く事にする。グランド・キャニオンの全長は、446kmも有ると言うから、我々が歩けるのはほんの一部だ。ビジター・センターを中心に、無料のバス路線が4本あり、何処ででも自由に乗り降りできる。 Grand
Canyon-2 Grand
Canyon-3 グランド・キャニオンと言うと、ほんの数人が絶壁から深い谷を見ている姿しか思い浮かばないが、現地へ来てみると沢山の観光客で賑わっている。年間400万人を越えると言うから、平均しても毎日1万人以上の人が来ていることになる。日本の観光地に当てはめれば、箱根の様な雰囲気だ。芦ノ湖を水のない渓谷に置き換えて想像すれば、町の雰囲気は似てくる。 我々が、殆ど平らで、整備の行き届いた遊歩道を、渓谷を眺めながら歩いていると、ブリッタとエミリーが後から追い付いてきた。若い二人は挨拶だけすると、先に歩きだした。「とてもシニアと一緒にダラダラ歩いてはいられません」とでも言うように。 Grand
Canyon-4 時間のない人、足が不自由な人は、並行して走っているバスで移動できるし、サイクリングしている若者もいる。中には谷底へ降りていく道もあり、そこを歩いている人が大勢居る。富士山に登る人がいれば、グランド・キャニオンに降りる人もいるわけだ。時折コンドルが空を舞っている。 Grand
Canyon-5 Grand
Canyon-6 歩いていると、谷底にコロラド川が見えたり隠れたりしている。時には渓谷の深さに、目が眩むような、足が震えるような光景を目の当たりにする。今が乾燥期なのか、これだけ広く絶壁を見渡しても、滝が1本も見あたらない事も不思議だ。 Grand
Canyon-7 Grand
Canyon-8 Grand
Canyon-9 PM1:00、強い日差しの中、休みながらではあるが3時間(10km前後)も歩くと疲れてきて「もういいか、何処まで歩いても切りがないし」と言う心境になり、歩き残したところはバスで回ることにする。見晴らしの良さそうなところで降りるつもりでいたが、あいにく雨が降ってきて、バスに乗ったまま通過する事に。 PM4:00、全路線のバスに乗り終わって、キャンプサイトへ戻ってきたが、まだ雨が降っていた。6時半までの自由時間を、どう過ごすか、テントに入って横になるのも良いけれど、雨の中では気分も優れない。近くの売店に寄ると、過日買うか買わないか迷っていた「ナバホ・コード・トーカーズ」の本が有ったので、それを買って読むことで、時間を潰すことにした。2時間で30頁ほど読んだ。残りは日本に帰ってからだ。 PM6:30、雨も上がり、皆が戻ってきた。キャンプサイトで夕食の支度。ブリッタの友人のエミリーも一緒だ。消防士の彼女は「ロス・アラモスの山火事は、まだ燃え続けており、過去最大の被害に拡大している」と言う。今日のメニューは、ハンバーガー。冷凍の肉を焼いて、それを野菜やチーズと共に、パンに挟んで食べるだけ。それでもマクドナルドのハンバーガーよりは美味しかった。 PM8:30、シャワーを浴びて、 PM9:00、就寝。早朝からで、お疲れ! 7月5日(火) グランド・キャニオン〜ブライス・キャニオン AM5:00、起床。日記を少々書く。 AM6:00、洗面、朝食。 AM7:00、テント収納。 AM8:00(AM9:00)、ブライス・キャニオン国立公園(Bryce Canyon
NP)へ出発。車は州道64号線、国道89号線を約480Km走って、アリゾナ州から再び、ユタ州に行く。これらの国立公園が州境に有るため、州を行ったり来たりすることになる。そして時差に従って時計の針を進めたり戻したり。今日の場合は、2つの州に時差はないのだが、夏時間を採用するかしないかで、1時間の修正が必要で、時計の針を1時間進めて午前9時にした。 AM10:30、一昨日、グランドキャニヨンに行く時、時間を潰すのに苦労した土産店(キャメロン:Cameron)で、トイレ休憩。 AM12:00、スーパー・ウォールマートで買いもの。私は使い勝手の良さそうな、コールマンのヘッドライトを購入。16.5ドル也。 PM1:00、コロラド川に架かる、グレン・キャニヨン・ダム(Glen Canyon
Dam)に立ち寄る。ビジター・センターに寄って、ダムが出来る前とダム工事の様子を映像で見た。大きさ、形は日本の黒部ダムに似ているが、現場の地形から推測すると、工事の難易度は黒部ダムの方が数倍上であったろう。このビジター・センターに入場するのに、9.11以後、空港並のセキュリティー・チェックをされたというが、今日は特段のチェックはなかった。昼食を此処の敷地内の芝生上で済まし、あわただしく出発。 Glen Canyon
Dam PM3:30、オーダーヴィレ(Orderville)でトイレ休憩。我々が向かっているブライス・キャニオンには、1850年代にモルモン開拓者が住み着いた。そしてブライスの名は、1875年にこの地に入植したエベニーザー・ブライス(Ebenezer
Bryce)に因んだものである。 PM5:00、ブライス・キャニオン国立公園に到着するや、すぐに日暮れ前のハイキングへ出発。サンライズ・ポイント(Sunrise
Point)から下って、サンセット・ポイント(Sunset
Point)に上がってくる約2時間のコース。此処は海抜8000フィート(2500m)から9000フィート(2700m)の高地で酸素が少ないのか、息切れが激しい。ハイキング終了後、暫くしてから軽い目眩を感じた。 Bryce Canyon
NP-1 Bryce Canyon
NP-2 グランド・キャニオンのサウスリムは7000フィート(2100m)であるから、この地域の生態と気候は全く異なっている。ここには他では見られない光景が、眼前に広がっている。 2、フードゥー(Hoodoo):アメリカ西部にある特異な形をした岩柱。オレンジ色の尖塔群。 3、ユタ・プレーリー・ドッグ(Utah Prairie
Dogs) PM7:30、テント張りをした後、夕食の支度。今日のメニューは、マカロニとサラダ。 実は数日前、ブリッタからツアー料金の追加を依頼されていた。理由は「4人という少人数でやっているために、何かと負担になっていて、会社から与えられた予算ではやっていけそうもない。1人70ドルの応援をお願いしたい」と言うことであった。 「こんな小人数でよくやっているな」と、心配はしていたのだが、「赤字になろうと、黒字になろうと、それは会社の責任であって、我々の責任では無いはずだ」とも思う。しかし若い女性のツアーガイドに面と向かって依頼されたのでは、断ることも出来ない。我々4人は快く承諾していたのだが、今日その請求をされた。 PM8:30、夕食。シャワー。 |